〇糸満市史(下巻)P799から抜粋
大城 スミ
昭和4年生・西り阿佐慶
グラマンの攻撃
私は伊原の出身で、主人は山城の人だった。主人は昭和2年(1927)生まれで、結婚してすぐに防衛隊にとられた。主人が防衛隊に行ってしまってからは、山城の稼ぎ先と伊原の実家を行ったり来たりしていた。
昭和20年(1945)の3月ごろ、主人に面会に行った翌日のことだが、実家から稼ぎ先に向かって歩いているとグラマン機が2、3機編隊を組んで飛んできた。前を行く兵隊が地面に体を伏せた。私も慌てて伏せて木の下などに隠れながらどうにか山城に帰った。山城に戻ると家族はマヤーアブに避難していた。舅(しゅうと)は糸満に行っていたらしく「大変、大変」と言いながら戻ってきた。その日の空襲は次第に激しくなった。あちこちに爆弾を落とされて、私たちはほこりをかぶり真っ黒に汚れた。海を見ると、船が数珠つなぎになって島をぐるぐると取り囲んでいた。
アダン葉いっぱいのはえ
それからは昼は壕の中、夕方になったらご飯を炊きに家に戻ったりの生活だった。空襲がないときは少し畑仕事もした。5月ごろまでそんな暮らしだった。
そのころ、私は妊娠していてお腹も大きくなってきてきたので、伊原の母の所に戻った。伊原では母と一緒にアブチラ壕に避難していたが、「軍が使うから、お前たちは別の壕を探しなさい」と日本兵に言われ、壕を出されてしまった。それで暗くなってから山城に向かった。私は小さい風呂敷包みに着物を、母は麦や米や釜などを持った。親を亡くした小さい子どもたちが「私たちも連れていって、連れていって」とせがんだ。あの時はもうみんな命からがらだったから、人の子どもの面倒までみることはできない。今思い出しても心が痛くなる。
どうにか山城のマヤーアブまで行ったが、ここも日本軍に追い出されてしまい、束辺名の太田隊の壕に行ったが、また追い払われてしまった。行く所もなくなり海岸近くのナカスガチと呼んでいる所まで逃げた。夫の両親も山城の壕を追い出されたと言ってナカスガチに逃げてきていた。
どこに行っても死体が転がり、ハエがいっぱいいた。始めのうちは死体は穴を掘って埋めていた。だが戦争が激しくなってからは埋めることができなかった。銀バエがアダンの葉を真っ黒にするくらいとまっていた。白いシラミもいっぱいだった。臭いとも思わなかった。もう戦争はめちゃくちゃだったから、民間人の着物を着て、避難民と混じったりする兵隊もいた。
親切だった米兵
5月の末ごろか6月の始めごろだったと思うけど、海のほうからマイクで「出テキナサイ。オイシイ水モアル。食べ物イッパイアルカラ、出テキナサイ」と言ってきた。みんな怖がって誰も出ていかない。捕虜になったら女はおもちゃにされ、妊娠している人やお年寄りなんかは戦車の下敷きにされると聞かされていた。「出テコイ、出テコイ」と言っても出ないので、米軍は弾を撃ってきた。もう隠れる所もないし、一緒に隠れていた二人の初年兵が出ないと大変だからと、裸になって両手を挙げて出ていった。私たちもその後ろからついていって捕虜になった。私たちは喜屋武望楼まで歩かされた。その辺りでは米兵が野球したり、馬に乗ったりとにぎやかにしていた。私はアメリカーがいたずらするかと思い、髪の毛もボサボサにして顔にも汚れを付けた。
ところが米兵は親切だった。水缶から水をくんできて自分で飲んで見せて「大丈夫だよ。飲みなさい」と水を飲ませてくれた。また親のいない子どもたちを孤児院に集めたり、本当に優しいねえと思った。