〇糸満市史(下巻)P796から抜粋
新屋 タケ
大正12年生・新屋仲新屋
兵隊の勝手
昭和19年(1944)、私は数え22歳で(新屋仲新屋)の三男正則と結婚したが、夫は兵隊に召集されて熊本に行ったので、実家の(東り仲門小)で両親と暮らしていた。
武(たけ)部隊が山城部落に来て、前の山に陣地壕を掘り始めた。下っぱの兵隊たちは茅(かや)ぶきの小屋を作って、そこで寝泊まりしていたが、上官たちは部落内の民家に宿泊していた。(東り仲門小)にも3人来て、一番座と二番座を使い、私たちは台所(トングヮ)で生活した。
山城にとても大きなカーラヤー(瓦ぶきの家)があった。その家は一番座、二番座、三番座まであった。武部隊はそこに女の人たちを連れてきて、慰安所に使っていた。はっきりは分からないが、慰安婦として沖縄の女の人が6人いるみたいだった。順番待ちの兵隊が、いつも並んでいた。そこも家族は台所で暮らしていた。
当時、ほとんどの家はワーフルといって豚小屋と便所が一緒だったから、兵隊たちはそれを嫌がってか、家の後ろや道などあっちこっちに野糞してあった。もう、兵隊の勝手だった。
山部隊の炊事を手伝う
子どもが生まれ、夫も熊本から戻ってきたが、今度は北谷の部隊に所属された。
武部隊が台湾に移動し、その後に山部隊が来た。山部隊は山の中に兵舎を建てて、そこで寝泊まりしていた。
私は、束辺名の東側の陣地にいた七中隊太田隊の炊事の手伝いをした。伊礼(現伊原)に食糧の配給所があって、係の兵隊がそこから運んできた野菜や芋を洗ったりする仕事だった。金額は覚えていないが、炊事班長の軍曹から給料をもらった。
マヤーアブに避難して
昭和20年(1945)3月、空襲警報が鳴ったので、私は母親と姉トミと一緒に子どもを連れて、前の山の南側にあるマヤーアブに避難した。父親は、家の近くに石を積んで避難小屋を作り、そこに避難していた。危ないからマヤーアブに行こうと言っても聞かなかった。マヤーアブに避難せず、小さな壕や民家に残っている人は他にも何人かいた。
夕方、母親と一緒に食糧を取りに家に戻った。食料をユナバーキ(ざる)に詰め込んでマヤーアブに向かって歩いていたら、飛行機が低空飛行してくるのが見えた。木の下に身を伏せたが、上からは見えてしまうので、近くの茅(かや)ぶきの民家に走った。その家には70歳ぐらいのおばあが一人残っていた。私たちは「ナー デージナトーサ(もう大変なことになった)」とブルブル震えていた。母親は「ワンネーシムシガ、ヤーヤ マダ若サヌ。ヤールシワヤンドー(私はいいけど、あんたはまだ若い。あんたのことが心配なんだよ)」と言っていた。爆音でミンクジラー(つんぼ)になったら大変だと思い、私は母親の耳を押さえていた。その時、家の東側にボボーンと爆弾が落ち、その爆風で私たちは吹き飛ばされた。家も丸ごと後ろに飛ばされ、側にあった木の葉っぱも全部吹き飛ばされて、枝だけ残っていた。幸い破片は飛んでこなかったので怪我(けが)はなかった。爆弾が落ちた所には大きな穴があいていて、近くの陣地から兵隊たちが様子を見にきた。私たちは怖くて、急いでマヤーアブに戻った。それからはずっとマヤーアブに隠れていた。
アブの中は真っ暗で、夜なのか昼なのかもわからない。ただ、夜は攻撃がなくて外が静かになったので、夜になったんだと分かった。その時にアブを出て、畑から芋を掘ってきたり、水をくみに行ったりしていた。水は部落東側にあるアシチャーガーにくみに行っているようだったが、後からは死体がウチクェンクェン(プカプカ浮いている)していて水くみには行けないと話していた。
用足しは外でやったが、アブの中でこっそりと大便する年寄りもいて、ウジがわいて汚かったね。
兵隊に命令されて、近くの陣地からの真壁の寺山の東側の陣地まで弾薬運びをさせられたこともあった。怖かったけど軍の命令だから仕方ないと思っていた。でも、私が死んだら後に残された家族が大変だと思っていたので、死ぬもんか、必ず生きなきゃいけないと思っていた。
次第に夜でも攻撃が行われるようになった。パラパラと照明弾が上がり、昼間みたいに明るくなったその後に艦砲(かんぽう)がピューピューと飛んできた。アブの中に居ても、地震みたいに揺れるから伏せていた。
子どもと母親の死
マヤーアブに避難してどのくらいたったころかね、私の子どもがあまりに泣くもんだから、中にいる住民に「ヤッタータミナカイ ムルクマー 全滅スクトゥ 外ンカイ出ジルワ(あんたたちのために、ここは全滅になるから外に出なさい)」とうるさく言われて、母親がおんぶして外に出た。そしたら、弾が落ちてきて、その破片で二人とも即死した。
二人の遺体をオーダー(もっこ)に乗せ、墓の近くの畑まで運んだ。畑の中に日本軍が掘った大きな穴があったので、そこに丸太を敷き、その上に二人を寝かせた。
体の不自由な従兄(いとこ)
私の従兄は半身不随で、自分で歩いて避難することができなかった。最初の空襲警報の後、防衛隊から一時家に戻ってきた兄と二人で、従兄をオーダーに乗せて、マヤーアブの南側にある小さなガマに避難させた。従兄は「マヤーアブはみんなが避難するから自分はここでいいよ」と遠慮しているようだった。従兄の嫁も片足がなく、松葉杖(づえ)をついてきて、二人はそこに隠れた。しばらくはそのままにしていたが、だんだん攻撃が激しくなったので、二人をマヤーアブに連れてきた。
マヤーアブから追い出される
兵隊が来て、ここは軍隊が使うから住民は出ないさいと言われた。私は従兄をおんぶしてマヤーガマを出た。海岸に向かう途中のナカスガチと呼ばれている所で、従兄が「ここでいいよ。お前たちも覚悟して逃げなさいよ。もう早く行きなさい」と言った。従兄を木の下におろして、私はマヤーアブに戻った。後で聞いた話では、従兄はそこで亡くなったらしい。
私と姉と親戚の数人は、夜道を喜屋武望楼のある喜屋武岬辺りに向かって走った。そこには上里の親戚が避難していると聞いていたので、それを頼っていった。そこはガマではないが、横からも上からも岩がかぶさっていて、まるで大きな家みたいで、隠れるのにとてもよかった。海からも見えないようになっていた。そこには上里や束辺名の住民がたくさん避難していた。
父親を迎えに
私は山城の避難小屋に残っている父親が心配だったので、呼びに行くことにした。その夜は照明弾は上がらなくて、真っ暗な中、道もわからないので茅(かや)をかき分けて当てずっぽうに歩き、やっと上里部落に着いた。民家の横で芋を煮てるおじさんがいたので、「おじさん、死体がたくさんあって怖いから、私をそこまで連れて行ってくれないね」とお願いしたが、だめだと断れた。夜だから弾は飛んでこないけど、あっちこっちに転がっている死体が怖かった。死体を踏まないように気を付けながら、一人で山城に向かった。死体から腐った臭いがした。父親は私が迎えにくるのを待っていたようだった。私は怖い思いをしてきたので「命懸けできたんだよ」と叱った。今度は父親と二人で来た道を引き返した。喜屋武望楼に着いたが、下に下りる道が探せなくて、7、8メートルの絶壁から岩をつかまえながらゆっくり下りた。下はゴツゴツした岩だから、足を踏み外したら危ない。その時のことを思い出すと、今でも鳥肌が立つ。そこから落ちて死んだ人もいたらしいからね。
部隊から戻ってきた夫が私を探しにきた。そして、別の場所に避難していた(新屋仲新屋)の家族を呼んできた。みんな無事だった。
日本兵が捕虜を撃った
前の晩に洗濯して干した洗濯物を取ろうと岩場に出たら、上の方にアメリカ兵が3人立っていた。私に「ヘイ、ヘイ」と呼びかけてきた。真ん中の兵隊は女みたいだった。「カモン、カモン」と言うが言葉の意味はわからない。怖くて怖くてどうしようと思いながら、両手を挙げたらやられると思って、とっさに片手を挙げた。後方から「何もしない。早くでておいで」と日本語が聞こえてきたので、少しは安心した。みんなも出てきた。それから荷物をまとめて、1列に並んで上に上がっていたら、下の岩場の方からピューと小銃弾が撃ち込まれ、私の前の前を歩いていた福地の娘が撃たれた。首の真ん中に弾が当たって即死だった。かわいそうに、まだ17歳だった。アメリカ兵がその娘の遺体を側に寄せた。岩場には日本兵もたくさん隠れていたから、きっとそこから撃ってきたと思う。アメリカ兵をねらったつもりが味方に当たったんだ。日本兵は上がってこないで、そのまま岩場に残っていた。
捕虜になって、喜屋武広場へ
私たちは喜屋武の広場に集められた。そこには周辺から出てきた避難民がたくさんいた。その中で兵隊と思われる男の人たちは1か所に集められ、別の場所に移された。夫もその中に入っていた。
のどが乾いたので、喜屋武のカー(井泉)に水をくみに行ったら、途中の屋敷に首が切られた死体、腸がはみ出した死体、お腹がプーと腫れた死体などがたくさん転がっていた。みんな兵隊のようだったが、目もあてられなかった。
その後、私たちは宜野湾村野嵩と山原の収容所で生活して、翌年糸満に戻ってきた。
遺骨がいっぱいの畑
糸満では芋掘り作業に出た。真栄里の畑に行った時、畑いっぱいに遺骨がゴロゴロしていて、びっくりした。そこら辺でアメリカ軍のバックナー中将が戦死し、その後兵隊も民間人も片っ端からめちゃくちゃにやられたらしいと聞いて、納得したね。畑の中は足も入られないほど遺骨だらけだったよ。鍬(くわ)を入れたらポッコンポッコンと頭蓋骨(ずがいこつ)やソーキ(あばら)骨にあたって、その度に「ごめんなさいね、成仏してよ」と祈って、遺骨を側に置いた。そこの芋はとても大きかった。
戦争はわからん方がいいよ
この戦争を始めた人は殺していいくらいだ。もうハーギシギシー(歯ぎしり)している。戦争だけはやめないと大変だよ。戦争より怖いのはない。台風は過ぎたら止むけど、戦争はそうはいかない。私たちは戦争に当たってしまったけど、子どもや孫の時代には戦争がないようにしてほしい。戦争はわからん(体験しない)方がいい。もう嫌だよ。